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只今電車の中です。

電車に乗るやいなやノビタ君ばりの早さで爆睡し始めた吾妻はふっと気がつくともう海南!列車は立ち乗り客で溢れかえっていました。


ご老人が立ち乗りしている中22歳は爆睡か…カッコ悪…とばつの悪い思いをしながらそそくさと席を譲りデッキへ。そこには子どもを抱いた母親が立っていました。どう考えても重いやん。しまいにはその母親にご年配の方が席を譲りやる。他に何人若者が座ったーるんな。何人ご老人が立ち乗りしたーるんな。

こんなん間違ったーるやろ?

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子どもに囲まれております。^^

親戚の子どもなのですが、まとわり付いて離れません。僕の両足の甲の上に子どもが乗るんです。笑 暑い…。;両肩に子どもが乗っているのです。笑 暑い…というか動けない。;

まぁ嬉しいのですがね。^^


最近子どもの叱り方について考えます。親と子が同レベルにいる叱り方はどうなのかと。
親はあくまで大人であり、保護者、教育者です。
子どもはあくまで子どもであり、庇護者、被教育者です。
だから親は子どもより一つ高い次元(意識的領域)にいる必要があります。そうすることで余裕や子どもに対する愛情を維持することができるのではないでしょうか。
その上で子どもの権利や主張を一緒に考えてあげる。

ま、理想論です。実際はすごく大変なんだろうな…「家族」って。でもきっと楽しいんやろな。
今日は本当に久しぶりにバイトに入った。久々のバイトの楽しいこと。接客業っていい!!
(さすが商売人の息子、血が接客を求めているのを感じたね。笑
しかしながら。つい二、三ヶ月前までは「めんどい」とか「暇」とかぶーたれていたのに、我ながら調子のいいことだ。


さて、その帰り道にある違和感に気がついた。なにか寂しく、涙が出そうになった。原因はわかっている。一つ要素が足りないのだ。

僕はいつもバイトの帰りに彼女に電話をする習慣があった。遠距離恋愛ということもあって、一日に一度は必ずメールや電話をするのが決まりになっていた。
バイト終わり、一人の帰り道が寂しさに最もさいなまれる時間であり、よく自転車をこぎながら当時の彼女に電話をかけていた。その日あった出来事や変わったお客さんの話など、互いに色んなことを話した。夜も遅く、彼女は大抵眠そうにしていたが、「寝かしてやらーん。笑」といつも意地悪をしていた。
≪*恥ずかしいので、この辺で自粛*≫

あれからもう約四ヶ月(かな?笑)。

あれから色んなことがあった。たぶん今会ったら彼女はきっと驚くに違いない。それ程多くの変化が僕の心にも体にも服装にも(部屋にも笑)訪れた。

未練はない。もう二度と付き合うこともない。

ただ、失ったという事実に蓋をしていた。それが今日バイトというきっかけで不意に開いてしまった。

パンドラの箱の中には、甘い記憶と一筋の涙が入っていた。(なんてね。笑


しかしまあ、僕彼女のことが好きやったんやなあ。
矛盾やら理不尽というものは自分が行っているときは気付かないもの。

(いや、気付けっちゅー話なんですが。

自分が一回生の頃は矛盾や理不尽、自らの考えを否定するような考えに対して、よくよく爆発していたものだ。鞄が宙を舞っていた。笑


自分も理不尽なことをよくやっていた。
自分の仕事ができないのを棚に上げて逆切れとか、
朝起きられないのを言い訳しつつ、逆切れとか。
逆切ればっか。笑 馬鹿にも程がある。笑笑


そんなこんなで私も今は四回生。現在の自分に矛盾やら理不尽というものはないであろうか?
(注意:後輩への謂れのない暴力はスキンシップ!笑

矛盾やら理不尽というものは自分では気付かないもの。だから他人からの批判やら非難は自分にとって必要なものである。


しかし他人からの批判は受け入れ難いものであるのも事実。つい自己肯定してしまい、相手を陥れたりしてしまうものだ。



そんなことを頭の片隅に置きつつ、今日のゼミを寝坊してしまった。ぐはっ。。
「腑に落ちる」という言葉がある。僕はこれを大切にしている。

どんなに素晴らしいものができても、自分自身が腑に落ちていない場合、満足することは少ない。勿論、自分が腑に落ちていなくてもやることはやるが。

「納得する」と「腑に落ちる」は違う。自分の意見とは違っていても理論が通っていれば「納得する」し、自分の意見と同じであっても違和感があり、「腑に落ちる」ことがないときもある。

「腑に落ちる」の方がより抽象的で、直感的であるのだ。

最近どうにも腑に落ちないことが多い。


何もないことを祈り、さらには対策を立てておこう。

今日考えたこと。

・自分が悲しいときに「楽しい音楽」を聴くと、元気を貰った気がする。
[(-1)+(+1)=±0]

・自分がノリノリのときに「楽しい音楽」を聴くと、ノリノリノリになる。
[(+1)+(+1)=+2]

・自分が悲しいときに「悲しい音楽」を聴くと、さらにさらに悲しくなる。
[(-1)+(-1)=-2]

・自分がノリノリのときに「悲しい音楽」を聴くと、ノリになる。
[(+1)+(-1)=±0]


何もこれは音楽だけではないけれど、人は感情の足し算、引き算ができるのかもしれない。いや、勿論ある程度感情のコントロールができるという前提条件があっての話だが。


[+2の状態の場合]
他人を省みなくなる。つまり陶酔にしてしまう。

[-2の状態の場合]
落ち込みが周りに伝染する。

[±0の状態の場合]
冷静な判断が下せる。


つまりいつのときも自らを±0の状態にできるように感情や生活を律する必要がある訳か。

しかしながら、そんな人間は人間臭さがなくてつまらない気がする。何が正しいのだろう?正しさなどないのなら、何が自分に合っているのだろうか?


己の美学に問いかけてみる。
昼間寝すぎて眠れません。コダまんからだいぶ前に来たバトンでもやるか。放置してごめんな。笑


・最近思う【後輩】

愛して止まないね。<最近>に限定すると、「お疲れさま」とね。
よく学び、よく成長していると思います。日々感謝しやるよ。後輩がいてこその先輩やからね。


・この【後輩】には感動

日々みんなの一挙一動に感動していますよ。
具体的に言うと、「今の行動は相手を思いやってのことやなー」とか「この子は自分から話をふれるようになったなー」とかね。
あとは、とてつもなく問題児やった奴が成長する姿とか、とてつもない音痴が自分ひとりで歌えるようになるとか、そういったものには目頭が熱くなります。


・直感的【後輩】

後輩に直感的も客観的もあるのだろうか?
よくわからんので次。


・この世に【後輩】がなかったら(いなかったら)?

この世に今の後輩がいなければ、たぶん今の僕もいないでしょう。


・バトンをまわしてくれた人って?

ミラクルタイプでお馴染みの八嶋さん似の滋賀県民。合唱団入ってくれてありがとね。


・【後輩】をマイミクさんに譲り渡すとしたら誰に渡す?

渡すも何も後輩は<僕のもの>ではないよ。
勿論後輩は大好きやけど、みんな一人の人間。僕の友であり、師匠でもあるんかな。



・次にまわす人10人(【指定】つきで)

やりたい人はお題は【心】でやってみてちょ。
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