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今日は合唱祭、後輩たちは頑張りやるんやろな‥


‥なんて想いを馳せる暇もなかった。



ののしられながら、排泄にまみれながら流す汗。

業務中は常に、立ちっ放し、走りっぱなし、水を飲む暇すら見つからない。

利用者の方の健康状態に合った臨機応変な対応を毎日要求される。

危険、リスク回避の為の気配り、利用者の方々の命を背負っている自覚。

不規則な勤務体系。

超低賃金。



今日は合唱祭、後輩たちは頑張りやるんかな‥


合唱‥したいなあ。
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なんか…むしゃくしゃすると、人に甘えたくなるよね。
胸元に飛び込み、頭をぐりぐりぐり…と。
別になんというストレスがある訳でもないのだが、ほんとになんとなく。


今、そんな気分。


しかし面と向かうと甘えられなくなるよね。やっぱり見栄がじゃまするのかね。

大体、誰に甘えればよいのやら。だって誰かと契約していないと甘えられないのだもの。


人間って不自由だ。

いや、社会制度が不自由なのか。
いや、「自分」が不自由なのか。
理論だけ。

感情だけ。


そんな人生はつまらない。


理論だけ。に偏ると、人生は「無機質」になる。

感情だけ。に偏ると、人生は「衝動的」になる。



彼は今無機質な世界の住人なのだろうか。

彼女は今衝動的な世界の住人なのだろうか。


僕は今…

「恋愛」とは何なのだろう?何のためにするのか?すれば楽しいからするというのであれば、それは可笑しな話だ。まあ、趣味「恋愛」の人も多く見受けられるが。いちゃいちゃするの楽しいやろしね。それは意見の相違。僕は楽しいから恋愛するとは思えない。「恋愛」の最終目的が「結婚」であるのだとすると、「結婚」は「恋愛」のゴールになる。そして「結婚」することで「結婚生活」が始まるとすると、「結婚生活」のゴールは互い、または片方の「死」か。では、「結婚生活」が必要ないなら、「結婚」が必要なく、「結婚」が必要ないなら、「恋愛」も必要ないということか。「恋愛」が必要ないということは「恋人」が必要ないということでもある。「恋人」って何だ?生まれも、考えも、境遇も、立場も、もしかしたら肌の色や言葉だって違うかもしれない。好きな人ということなら「好意を持った異性の友人」とは何が違う?性的交渉か?将来への展望か?「結婚」って何だ?契約か?浮気は決していたしませぬという契約。寝食を共にいたしますという契約。そんな契約で自らを縛る必要はあるのだろうか。自立した人間には「恋人」も「恋愛」も「結婚」も必要ないのではないのか。しかしそれは生物学上間違っている気もする。そもそも生物学的行いは恥ずべき行いのように思われがちだ。欲望のままの行動…



そんなことはどうでもいい!!!




僕は君がとても好きだから、君



は僕の恋人で、だから、一緒



にいたいから結婚する!!!




それでいい。
「考える」ということはすなはち、


(知る→)分析→原因究明→方針審議→詳細審議→決定


から構成されている。《現時点での結論》
学生のうちはこの「分析」の時点ですでに躓いている。視野が狭いのだ。(何のカテゴリーがあるのか知らない、どんな分析法があるのか知らない…etc)

「考える」ことをより有意義に行う為に、人は自らをより向上させなければならない。見解を広げなければならない。つまり「(自分にとって)良いものとは何か」(絵画、仕事、社会、音楽、空間、運動、思想…etc)を知り、それをより高次に高める必要がある。

しかし、人間は常に新しいものを知る。つまりその「考える」ことによって生み出された結論は、古いものになってしまう。つまり人間は《現時点での結論》しか「考える」ことによって生み出せないのだ。


だから自分の結論に自信を持てばいい。しかし常に自分の結論に疑問を抱かなければならない。



僕の「保留」はもう終わった。
みんなの「保留」ももう終わりにしよう。



「考える」のだ。
今日は面白い話を聞いた。
やっぱりあの人は凄い。見解にはほとんど同意せざるをえないし、反駁の余地も見出せない。さらに自分の見解を社会に帰納しているし、根拠もある。自分よりもずっと優れていると感じさせられると共に、自分の指針を感じさせられる。これからもまだまだ多くを学べそうだ。

そして見れば見る程、橋本弁護士に似ている。笑


これはその話の一端。

「罰」

共同体に於ける「罰」というのは、その対象を「赦す」という考えが前提として既に存在している。「赦さない」というのはすなはち共存しないということであり、すなはち自分の意識世界もしくはこの世界からの死を表すということだ。

これに関しては考える余地がありそうだ。

僕は個人的に、法としてはハムラビ法が最も優れた法であると考える。
“やられたことをやりかえす”(対等な身分のみであるようだが)実にシンプルな原理ではないか。
ただ、倫理的な部分に大きな問題を抱えている。
(人は人を裁けるのか?更生する機会も与えないのか?

いっそのこと、法の神格化でもすればいいと思うが。

シャマシュ!!!


しかし、神に頼るということはすなはち考えることを止めるということ。
その方が安定はするけど、それでは自分の見解は狭いままで留まってしまう。

「人間は考える葦である」とはよく言ったものだ。
ここ最近携帯電話を二度も落とした。

そのときに気付いた。


自分は携帯電話でしか相手と繋がっていないことに。


(勿論、心理的なものは繋がっていると信じている。
しかし、携帯電話がなくなると、もう誰とも連絡が取れなくなってしまうではないか。つまり現代に於いて携帯をなくすということは、人との繋がりを失うといっても過言ではない、のかもしれない。

そして自分は今いる場所の人たちにさえ連絡が付けば、不自由はしない、のかもしれない。

僕は思った、電話帳を付けようと。

(たかが携帯電話を紛失したくらいで、
色んな人との繋がりを失いたくないから。
今まで出会ってきた人たちとの思い出を、繋がりを失いたくないから。


携帯電話は人の繋がりを変えたのか。
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