歩
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since 2006/05/17
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【新合唱団創成に先立つ所信表明】
僕は合唱に「魂の在処」を感じる。
僕は合唱に「森羅万象、無限への祈り」を感じる。
張り詰めた緊張の中、全員が一体となり、一音に全身全霊の感覚を研ぎ澄ませた渾身の一曲を表現する。
終演後の降り注ぐ拍手に最高の陶酔を感じる。観衆の熱気が拍手から伝わってくる。頭から安堵の混じった甘いしびれがやってくる。
そういう合唱がしたい。
それをつまみにみんなで鍋が食べたい。
そんな仲間(家族)に巡り逢えたなら、それが幸せなのだろう、生きるということなのだろう。
そういう合唱がしたい。
僕は合唱に「魂の在処」を感じる。
僕は合唱に「森羅万象、無限への祈り」を感じる。
張り詰めた緊張の中、全員が一体となり、一音に全身全霊の感覚を研ぎ澄ませた渾身の一曲を表現する。
終演後の降り注ぐ拍手に最高の陶酔を感じる。観衆の熱気が拍手から伝わってくる。頭から安堵の混じった甘いしびれがやってくる。
そういう合唱がしたい。
それをつまみにみんなで鍋が食べたい。
そんな仲間(家族)に巡り逢えたなら、それが幸せなのだろう、生きるということなのだろう。
そういう合唱がしたい。
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しかし実践が伴わない。
まだまだ。
自覚と実践。
理想に現実をより近づけてゆく。
ところで最近どうにも女性恐怖症だ。いつ以来の再発症だろう?
なんか、目を見るのが怖い。
まだまだ。
自覚と実践。
理想に現実をより近づけてゆく。
ところで最近どうにも女性恐怖症だ。いつ以来の再発症だろう?
なんか、目を見るのが怖い。
さて、私は只今実家に帰省しているのですが、実家の何がいいって衣食住が保障されていることが素晴らしい!
風呂から上がればふかふかの服。
お腹が空いたら美味しいご飯。
眠くなったらダブルベッドを一人占め。
一人暮らしを始めて、こういった恵まれた環境は実は親(特に母親)が作ってくれているということを痛いほど思い知らされます。
感謝というか崇拝というか…例え私が明日から肉体改造を始めたとして、一年後には筋肉番付に出ている外国人選手ばり(←あのボディはまじやばい!)にムキムキのボディになったとしても、白髪の混じった私の両親には決して勝てないでしょう。
まあそんな訳で、ちょっとでも恩を返すべく洗車、掃除、力仕事、子守など色々お手伝いしています。明日はベッドを運ぶそうです。苦笑
という風に多忙な毎日を送っています。
新年。今年もまたいろんな経験ができたらいいなあ。
去年の今頃、上記の日記を書いた僕は、現状を思い描くことができただろうか。
当ブログ「歩」をご覧の皆さま、明けましておめでとう御座います。
昨年は本当に色々とご迷惑をお掛けしました。今年もご迷惑をお掛けすることが多々あるでしょうが、何卒今年もこの不肖吾妻を宜しくお願い致します。
さて、今年の私はと申しますと、夜勤の真っ只中であります。
うちの利用者さんたちが気持ちよく新年を迎えられることができれば、介護者冥利に尽きるというものです。
今年一年、ほんとうに色んなことがありました。ここ最近感じていることは、
自分は大して不幸には感じませんが、たぶん現状の自分のような人間が社会的弱者なのだろうとなんとなく自覚しております。
人の心を推し量れば推し量る程、そこはかとなく切なくなります。「弱さ」が罪を重ねさせるのでしょう。
自分の世界がいかに狭いものなのかを感じます。しかし、その広さはあまり知りたくない気もします。
自他共に汚さ、醜さには目を向けたくないと時に思いますが、それも含めて人なのでしょう。
強く、凛と、美しく、在る。
誰かを助ける、誰かを守る、誰かを正す、為に在る。
道徳、美徳に拠って、在る。
道を見つけたい、そんなちょっと聖人君主的なことを思い描いている午前01:02。
こんな僕は少し社会から外れた存在のようです。
最近読みすすめている本。
ラッセル「幸福論」
これが面白い。第一章「何が人びとを不幸にするのか」を読んだ時点でぐっときた。
本書では、不幸の原因を「個人の心理」に見出している。
(「社会制度」については挙げられているが、言及されていない。あくまで外的不幸のない人にのみ注意を向けている。
不幸とは、
≪大部分まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣による≫
ものであり、幸福は、
自分の望んでいるものを発見し、それを、
≪数多く獲得する≫
≪獲得不可能なものとして上手に捨ててしまう≫
もしくは、
≪自分自身にだんだんとらわれなくなる≫
ことにより満たされる。
この≪自分自身にとらわれなくなる≫が肝心であると第一章では詳しく示唆してある。
要約
注意を外界に向けることが大事であり、自己に没頭することが進歩的な活動に至ることは決してない。逆に外界への興味はそれぞれ何かの活動をうながし、その興味が活き活きとしているかぎり、「倦怠」を完全に予防してくれるのだ。
(※この倦怠については後の章で詳しく書かれている。寧ろ、この本の主題は倦怠との付き合い方にある。
この自己没頭には様々な種類があり、ここでは「ナルシシスト」「誇大妄想狂」「罪びと」というありふれた三つのパターンが示されている。
「罪びと」
幼少期の心情と愛情の圧制により、自分はかくあるべきであるという理想像があり、その理想像とあるがままの自分の姿と絶えず衝突し、快楽を享受できない人。
「ナルシシスト」(※度のすぎたもの。ある程度まではノーマルであり、意欲となる。
自分自身を賛美し、人からも賛美されたいと願い習慣を本質とする。
要するに虚栄心にとらわれた人。虚栄心はある限度を越えると、あらゆる活動を純粋に楽しむ気持ちを殺してしまい、必然的に無気力と退屈を生み出す。
「誇大妄想狂」
自分の人生に一方的な方向を与え、それとともに、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみをまったく不当に強調するようになった人。
(※ナルシシストと異なる点は、魅力的であるより、権力を持つことを望み、愛されるよりも恐れられることを望む。人からの評価より、自分自身の評価を第一としている。
まだ第二章を読んだところなので、とりあえず今のまとめとする。
みんなはどれに当てはまるだろうか?
僕は、
「罪びと」:「ナルシシスト」=7:3
といったところか。
ラッセル「幸福論」
これが面白い。第一章「何が人びとを不幸にするのか」を読んだ時点でぐっときた。
本書では、不幸の原因を「個人の心理」に見出している。
(「社会制度」については挙げられているが、言及されていない。あくまで外的不幸のない人にのみ注意を向けている。
不幸とは、
≪大部分まちがった世界観、まちがった道徳、まちがった生活習慣による≫
ものであり、幸福は、
自分の望んでいるものを発見し、それを、
≪数多く獲得する≫
≪獲得不可能なものとして上手に捨ててしまう≫
もしくは、
≪自分自身にだんだんとらわれなくなる≫
ことにより満たされる。
この≪自分自身にとらわれなくなる≫が肝心であると第一章では詳しく示唆してある。
要約
注意を外界に向けることが大事であり、自己に没頭することが進歩的な活動に至ることは決してない。逆に外界への興味はそれぞれ何かの活動をうながし、その興味が活き活きとしているかぎり、「倦怠」を完全に予防してくれるのだ。
(※この倦怠については後の章で詳しく書かれている。寧ろ、この本の主題は倦怠との付き合い方にある。
この自己没頭には様々な種類があり、ここでは「ナルシシスト」「誇大妄想狂」「罪びと」というありふれた三つのパターンが示されている。
「罪びと」
幼少期の心情と愛情の圧制により、自分はかくあるべきであるという理想像があり、その理想像とあるがままの自分の姿と絶えず衝突し、快楽を享受できない人。
「ナルシシスト」(※度のすぎたもの。ある程度まではノーマルであり、意欲となる。
自分自身を賛美し、人からも賛美されたいと願い習慣を本質とする。
要するに虚栄心にとらわれた人。虚栄心はある限度を越えると、あらゆる活動を純粋に楽しむ気持ちを殺してしまい、必然的に無気力と退屈を生み出す。
「誇大妄想狂」
自分の人生に一方的な方向を与え、それとともに、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみをまったく不当に強調するようになった人。
(※ナルシシストと異なる点は、魅力的であるより、権力を持つことを望み、愛されるよりも恐れられることを望む。人からの評価より、自分自身の評価を第一としている。
まだ第二章を読んだところなので、とりあえず今のまとめとする。
みんなはどれに当てはまるだろうか?
僕は、
「罪びと」:「ナルシシスト」=7:3
といったところか。
自分の中に【言葉】が溢れすぎている。
人間は生まれながらにして矛盾を背負っている。
理性と欲。
だから苦しむ。
理性は人道に外れぬこと、すなはち徳。
徳と欲の矛盾。
徳とは人道に外れぬこと、すなはち人の世に生きる道を外れぬこと、つまりは人の社会から外れぬこと。
人の社会に生きるということは自然界のルールである「弱肉強食」からの乖離を意味する。
論理的に考える上で最も効率がよいルールは弱肉強食であり(個にとって最もよいものを優先する)、つまり徳に従うということは極論論理的ではないということ。
徳に拠って生くるべきか、
論理的に生くるべきか、
否。人の社会に生まれてきた時点で、人は徳に支配されている。
つまり、根源的な所(生死)に於いて徳に拠ってしか生きられない。
理性と欲。
だから苦しむ。
理性は人道に外れぬこと、すなはち徳。
徳と欲の矛盾。
徳とは人道に外れぬこと、すなはち人の世に生きる道を外れぬこと、つまりは人の社会から外れぬこと。
人の社会に生きるということは自然界のルールである「弱肉強食」からの乖離を意味する。
論理的に考える上で最も効率がよいルールは弱肉強食であり(個にとって最もよいものを優先する)、つまり徳に従うということは極論論理的ではないということ。
徳に拠って生くるべきか、
論理的に生くるべきか、
否。人の社会に生まれてきた時点で、人は徳に支配されている。
つまり、根源的な所(生死)に於いて徳に拠ってしか生きられない。
吾妻君は有名アーティストであるOZMAの作品『富士山』を鑑賞する為、京都市立美術館にやってきた。
「うわー。あれがかの有名なOZMAの富士山か…なんて神々しい姿なんだろう…。」
この作品に感動した吾妻君は実際に富士山に登山することを試みる。
その道は想像以上に険しく、過酷な道のりを越え、ようやく登頂に成功した。そのご来光の神々しさといったら、言葉には語りつくせぬものであった。
感動した吾妻君はこの感動をOZMAと同じく絵にしようと筆をとった。はなはだ下手糞ではあるが、心を尽くして描いたこともあり、感動が絵になった喜びを胸に下山したのであった。
後日、吾妻君はその作品を友達に見せた。
友達の反応は冷たく、
「何それ。笑 なんか…小学校の絵日記を思い出すな。笑」
軽くあしらわれるのであった。
吾妻君がこの絵を見ると、確かに神々しく輝く富士山を感じることができるのに。それが友達には伝わらないのだ。
何がいけないのだろう???
これを「合唱」に当て嵌めるとどうなるのだろう???
「うわー。あれがかの有名なOZMAの富士山か…なんて神々しい姿なんだろう…。」
この作品に感動した吾妻君は実際に富士山に登山することを試みる。
その道は想像以上に険しく、過酷な道のりを越え、ようやく登頂に成功した。そのご来光の神々しさといったら、言葉には語りつくせぬものであった。
感動した吾妻君はこの感動をOZMAと同じく絵にしようと筆をとった。はなはだ下手糞ではあるが、心を尽くして描いたこともあり、感動が絵になった喜びを胸に下山したのであった。
後日、吾妻君はその作品を友達に見せた。
友達の反応は冷たく、
「何それ。笑 なんか…小学校の絵日記を思い出すな。笑」
軽くあしらわれるのであった。
吾妻君がこの絵を見ると、確かに神々しく輝く富士山を感じることができるのに。それが友達には伝わらないのだ。
何がいけないのだろう???
これを「合唱」に当て嵌めるとどうなるのだろう???